エネルギーがないことほど危険なことはない 〜『憂国の原子力誕生秘話』を振り返る〜

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先ほどの【お知らせ】投稿にて「やまたけNEWS(第21号)」のご紹介をいたしました。
 
「思いと考えは自分の声と足で届ける」をモットーに、一昨日の晩と昨日午前中で町内全戸にはポスティングしましたが、今回のNEWSは敦賀市議会で「エネルギー基本計画見直し」に対して意見書を提出したことや、敦賀発電所2号機の審査の件もありエネルギーのことを中心に記載しています。
 
本日の朝刊に新聞折込みもいたしましたが、一人でも多くの方に伝われば何よりです。
 
さて、NEWSの最後にある「ちょっとひとこと」を書くにあたり、日本社会党機関誌編集局長を経て衆議院議員を6期お務めになられた後藤茂氏の著書『憂国の原子力誕生秘話』を手にしたところ。
 
タイトルの通り、この著書は、戦後日本において、原子力を研究、開発利用した当時の状況が克明に記録されていることに加え、中曽根康弘元総理大臣など、原子力黎明期に活躍された方々の国家観ある壮大且つ強い思いが紹介されており、これまで何度も読み返しているもの。
 
「ちょっとひとこと」にも記載したよう、世界唯一の戦争被爆国が原子力を選択した理由がまさにここに記載されている訳ですが、著書には「無資源国の日本が資源を止められたことが無謀な戦争の一因になったことを、当時はどの人も深刻に受け止めていた」、「エネルギーは国家百年の計だという考えが、自民党、社会党を問わず、政治家の頭にあった」とあり、自国のエネルギーを確保するかが国家の行方を左右するとの考えが根底にあることを改めて強く認識する次第です。
 

【私にとってバイブル的存在の『憂国の原子力誕生秘話』。原子力黎明期の歴史を読み返すたびに力が湧きます。】
 
著書の中で、昭和24(1949)年12月に、国連総会でソ連を含め満場一致で決定され開催された「原子力平和利用国際会議」の様子が記されており、それまでベールに包まれていた原子力の情報が平和利用のために公開されるとあって、72カ国の政府代表や約3,000人もの科学者が参加したとありました。
 
これに日本からは、中曽根康弘、松前重義、前田正男、志村茂治の4人の衆議院議員が参加しており、当時を振り返り中曽根氏は、「我々の時代は戦争を経験している。原子力平和利用国際会議への出席は、まるで出征兵士の意気込みで臨んだ。(米ソ)冷戦下でこれから日本がどう生きていくのか、”国の形”を真剣に考えていた」と語っています。
 
みな戦争経験者であり、だからこそ、原子力を平和利用することによって、新しい「国」を創る。念頭には「国」しかなかった。不退転の覚悟で進めようと、心に深く誓ったのである。
 
ジュネーブ国際会議場は、その格好の舞台だったのだ。国際会議という大舞台で、しかも慌ただしい日程を精力的にこなしながら、国土を荒廃させ、原爆の洗礼を受けてしまった祖国を思い、原子力によって復興させると、心昂らせたのであった
 
と文章は続きます。
 
様々な過程、議論を経つつ、日本の原子力利用は昭和30(1955)年の「原子力基本法」制定を根拠に始まります。
 
ここで、先の国際会議にも参加し、本法案の提出者ともなった中曽根康弘氏の提案理由説明でまず、「本原子力基本法案は自由民主党並びに日本社会党の共同提案になるものでありまして、両党の議員の共同作業によって、全議員の名前をもって国民の前に提出した次第であります。」との言葉ではじまり、基本法を議員立法とした熱い思いが、委員会室に伝わったとありましたが、中曽根氏が続けて述べた提案理由にすべてが包括していると思うことから、以下引用いたします(一部、中略)。
 
(前略)そこで、日本に原子力国策を確立する場合において、いかなる点を考慮すべきかといいますと、われわれの考えでは、まず国策の基本を確立するということが第一であります。日本には有能なる科学者があり、技術者があり、技術陣があります。しかし、国策が確立されておらないようでは、有能なる学者はここに集まってきません。そこで、機構的にも予算的にも、国家が、不動の態勢をもって、全国民協力のもとに、この政策を長期的に進めるという態勢を整えることが第一であります。これによって有能なる学者をこの方向に指向させることができるのであります。
 
第二点は、超党派性をもってこの政策を運用して、政争の圏外に置くということであります。国民の相当数が、日本の原子力政策の推進を冷やかな目で見るということは悲しむべきことであり、絶対避けなければならないのであります。全国民が協力するもとに、超党派的にこの政策を進めるということが、日本の場合は特に重要であるのであります。
 
第三点は、長期的計画性をもって、しかも日本の個性を生かしたやり方という考え方であります。原子力の問題は、各国においては、三十年計画、五十年計画をもって進めるのでありまして、わが国におきましても、三十年計画、五十年計画程度の雄大なる構想を必要といたします。それと同時に、資源が貧弱で資本力のない日本の国情に適当するような方途を講ずることが必要であります。
 
第四点は、原子力の一番中心の問題は金でもなければ機構でもない。一番中心の問題は、日本に存在する非常に有能なる学者に心から協力してもらうという態勢を作ることであります。具体的に申し上げれば、湯川博士や朝永博士以下、日本の学界には三十前後の非常に優秀なる世界的なる学者が存在いたします。これらの有能なる学者が、国家のために心から研究に精を出してもらうという環境を作ることが、政治家の一番重要なことであります。
そのようなことは、学者の意見を十分取り入れて、この原子力の研究というものが、日本の一部のために行われておらない、一政党の手先でもなければ、財界の手先でもない、全日本国民の運命を開拓するために国民的スケールにおいてこれが行われておるという態勢を作ることが一番大事な点であります。このような点にわれわれは機構その他についても十分配慮した次第であります。
 
第五点は、国際性を豊かに盛るということであります。原子力の研究は、各国におきましてはみな国際的な協力のもとに行われております。
 
第六点は、日本の原子力の問題というものは、広島、長崎の悲劇から出発いたしました。従って、日本国民の間には、この悲しむべき原因から発しまして、原子力に対する非常なる疑いを持っておるのであります。このような国民の誤解を、われわれはしんぼう強く解くという努力をする必要があると思うのであります。広島、長崎の経験から発した国民が、原子力の平和利用や外国のいろいろな申し出に対して疑問を持つのは当然であります。従って、政治家としては、これらの疑問をあくまで克明に解いて、ただすべきものはただして、全国民の心からなる協力を得るという態勢が必要であります。
 
この基本法案を総合的基本法としました理由は、日本の原子力政策の全般的な見通しを国民の各位に与えて、燃料の問題にしても、放射線の防止にしても、原子炉の管理にしても、危険がないように安心を与えるという考慮が第一にあったのであります。日本の原子力政策のホール・ピクチャーを国民に示して、それによって十分なる理解を得るというのが第一の念願でありました。
 
日本の現在の国際的地位は戦争に負けて以来非常に低いのでありますが、しかし、科挙技術の部面は、中立性を保っておりますから、そう外国との間に摩擦が起ることはありません。われわれが国際的地位を回復し、日本の科学技術の水準を上げるということは、原子力や科学によって可能であると思うのであります。(中略)原子力の熱を完全にとらえて原子炉文明というものが出てくれば、一億の人口を養うことば必ずしも不可能ではない、そのようにわれわれは考えます。
 
この演説はまさに、半世紀を経た現在にも通ずるもの。
 
著書には、「無資源国の日本が資源を止められたことが無謀な戦争の一因になったことを、当時はどの人も深刻に受け止めていた」、「エネルギーは国家百年の計だという考えが、自民党、社会党を問わず、政治家の頭にあった」ことを紹介しました。
 
国際会議に参加した中曽根氏の「(米ソ)冷戦下でこれから日本がどう生きていくのか、”国の形”を真剣に考えていた」との考えは、今に置き換えれば、ロシアのウクライナ侵略以降、世界は熾烈な「エネルギー資源獲得競争」を続けており、緊迫する国際情勢の中で「日本はどう生きていくのか」。
 
かのマリー・キューリー夫人の研究所で助手を務めたフランス原子力界のバートランド・ゴールドシュミット博士はこう言っています。
 
「エネルギーがないことほど危険なことはない。われわれは原子力を推進せねばならないが、一層強く核不拡散と事故のリスクを最小にすることに配慮しなければならない。これは原子力の壮大なストーリーが継続する中で、到達した確信である。」
 
答えはここにありと思う次第。
 
やまたけNEWSの「ちょっとひとこと」には、このような歴史背景と高まる危機感を踏まえ、思いを込めて書き上げました。
 
補足する本日のブログもお読みいただき、私の考えが少しでも伝われば幸いです。