『水戸天狗党 ーゆかりの地における慰霊・顕彰と評価一』〜敦賀市民歴史講座(第4講)を開催〜

ブログ 敦賀の歴史・文化

気持ち良い秋晴れのなか、昨日は「水戸天狗党」に思いを馳せる一日。
 
午前中は、整備を終えた「武田耕雲斎等墓」現地見学会(敦賀市教育委員会文化振興課主催)に参加、午後は気比史学会の事務局として、敦賀市民歴史講座(第4講)『水戸天狗党ーゆかりの地における慰霊・顕彰と評価一』の準備運営にあたりました。
 
午前中の見学会は①10時、②11時の2回行われましたが、私は10時からの回に参加。
 
30名程度を予定していたようですが、それを上回る約40名が参加され、関心の高さを感じたところです。
 
説明会ではまず、新設したガイダンス施設の展示パネルをもとに、水戸天狗党の挙兵から降伏、敦賀での処刑、墓地造営と慰霊に至るまで、文化振興課の中野学芸員に分かりやすく説明いただきました。
 

【展示パネルの説明を聞く参加者】
 
その後は武田耕雲斎等墓の墳墓周り、移築された水戸烈士記念館(鰊蔵)内を見学。
 
なお、寛文10(1670)年に建てられた鰊蔵(にしんぐら)は、江戸時代に船町(現在の蓬莱町)にあった港湾倉庫で、敦賀港が発展してきた中、幕末に水戸天狗党を幽閉した歴史的事件の舞台となったことで取り壊しを逸れ、今も保存される建造物(令和2年に敦賀市文化財指定)。
 
修復を終えた蔵の中に入ると、天井に張られた竹は一部を除き、江戸時代からのものを再使用したことや、実用性のある倉庫であったことから柱も継ぎ当てて使われていたことなど、建造物としての特徴をご説明いただきましたが、武田耕雲斎先生以下、水戸烈士たちがここで過酷な環境で幽閉された史実を思い返した次第です。
 
なお、鰊蔵は常時開放ではないものの、ガイダンス施設の説明パネルはいつでもご覧になれますので、とりわけ市民の皆様方には是非ご覧いただきたく。
 
今後またお時間のある時に「史跡武田耕雲斎等墓」に足を運んでいただければ幸いです。
 

【鰊蔵の内部。志半ばで捉えられた烈士の思いを偲びました。】
 
続いて、午後2時からは敦賀市民歴史講座。
 
12時半頃から会場設営など準備をし参加者を待つと、次々と訪れ、こちらは定員100名のところ何と「95名」の参加。
 
午前中の現地説明会に参加されていた方もチラホラ見えましたが、やはり水戸天狗党の歴史に対する探究心の高さを感じたところです。
 

【満員の講座会場(市立図書館3階 研修室)】
 
水戸天狗党が筑波山で挙兵してから今年で160年を機に設定したこの回ですが、中央大学資料館事務室(法と正義の資料館・大学史資料館) 学芸員の岩立将史氏を講師にお迎えし、『水戸天狗党ーゆかりの地における慰霊・顕彰と評価一』をテーマに、水戸天狗党ゆかりの地における慰霊・頭彰を概観したうえで、各地域で出版された書籍などの叙述から天狗党の評価をご教授いただきました。
 
講演された内容は、以下4つの視点から。
 
1 水戸天狗党の軌跡を概観する
2 天狗党ゆかりの地における慰霊・顕彰を概観する
3 ゆかりの地における戦前の天狗党の評価を分析する
4 ゆかりの地における戦後の天狗党の評価を分析する
 
元治元(1864)年3月27日、常陸国筑波山において、水戸藩士藤田小四郎らが、幕府に攘夷実行(横浜鎖港)を促すことを目的に挙兵した以降、敦賀で幕府軍(加賀藩)に降伏するまでの過程は、以前にもご紹介しているため割愛しますが、当時の水戸藩で、反改革派の流れを組む門閥派は、改革派(尊攘派)を「成り上がり者が天狗になって威張る」という軽蔑の意味で「天狗党」と呼んだのに対し、尊攘派は、「天狗は義勇ないし正義の変え名である」と称して、自ら天狗であることを誇示したと、相反する考えがあったことを知りました。
 
また、「ゆかりの地における慰霊・顕彰」では、水戸市、下仁田市(群馬県)、下諏訪町(長野県)、飯田市(長野県)、敦賀市のそれぞれが、墓標や留跡碑の建立、祭りの開催などの行事を行なっていること。
 
「ゆかりの地における『戦前』と『戦後』の天狗党の評価を分析する」では、「戦前」が表現は異なるものの、各地域において天狗党=勤王(国家功労者)と評価している点が共通していること、(皇国史観の影響か)、「戦後」が茨城県や長野県、福井県において、天狗党の行動が明治維新の契機となった旨が述べられている点が共通しているとし、戦前から戦後にかけて、天狗党は「勤王(国家功労者)」から「明治維新の契機となった人々」と評価が変化している(好意的に捉えている点は共通か)との結びがありました。
 
なお、敦賀においては、元治2(1865)年2月に処刑された際に形成された「五塚」を、慶應2(1866)年頃には一所に集めて八間四方「墳塋」(ふんえい)したうえ、明治元(1868)年には、12間四面の方塚となり、墓石を建立しています。
 
さらに、明治2(1869)年7月、敦賀の真言宗行寿院峻山は水戸藩を通して太政官に天狗党の祭祀の許可を出願。
 
明治8年1月、松原神社創建と天狗党の祭祀が許可され、明治11年10月10日、祭粢料500円が滋賀県(当時の敦賀は滋賀県)に下賜されており、以降、例祭日である10月10日に連綿と「例大祭」を執り行ってきています。
 
このように、敦賀の人々が、水戸天狗党を「勤王」の「有為の士」、「義士」として敬意をもって祀ってこられたことを改めて認識した次第です。
 
あくまでも私見ですが、こうして対応されたことは、「義の武将」と称される敦賀城主「大谷吉継」公の思いや生き様が、敦賀の人々の心に宿っていたからではないか。
 
また、水戸天狗党に因む「人道の史実」は幕末から明治、大正、昭和と続く中で、ポーランド孤児やユダヤ難民を受け入れた「人道の港敦賀」につながったのではと考えるところです。
 
そうして思えば、吉継公、水戸天狗党、人道の港の歴史こそ、敦賀のアイデンティティを表すもの。
 
私も敦賀人の一人として、「義」の一文字を胸に刻む次第です。