2024年11月18日
『日本横断!運河計画 敦賀~琵琶湖運河計画と琵琶湖の新田開発』〜市民歴史講座(第5講)を開催〜
注目の兵庫県知事選挙は、斉藤元彦氏(前知事)が勝利。
パワーハラスメントなどに関し、SNSやYouTubeでFACT(真実)を探った有権者の皆さんの判断と報じられていますが、斉藤氏が戦っていたと言われる「既得権益」とは何だったのかまでは報じられないまま。
まさに民意を問う「選挙」でしたが、一連の流れと合わせ、大変考えさせられる「選挙」となりました。
さて、「FACT」に関連して歴史の世界。
『それは夢か欲望か…みんなの本気が海と湖を結び、日本を構断していった。』
これは、令和6年度敦賀市立博物館特別展「日本横断 運河計画」にあるサブタイトルですが、11月2日の市立博物館特別講座に続き、11月16日(土)には、博物館との協力関係のもと、気比史学会主催の市民歴史講座(第5講)『日本横断!運河計画 敦賀~琵琶湖運河計画と琵琶湖の新田開発』を開催しました。
講師には、大津市歴史博物館の杉江進館長をお招きし、各文献を基にした、史実に基づく貴重なお話しを拝聴しました。
【100名近くの方に参加いただいた市民歴史講座の様子】
はじめに、敦賀-琵琶湖運河計画ついて、
・誰が何を目的にしたか?
・資金はどこから調達しようとしたか?
・計画ルートはどこか?
の視点で考えていきたいとした上で、以下のお話しがありました。
<伝承の世界>
◉同運河計画は、平安時代の平清盛(が重盛に託した)、天正13年(1565)の敦賀城主の蜂屋頼隆、天正末期から慶長初期に大谷吉継らが計画したとあるが、近世の地誌等で確認されるものの、具体的計画を示す史料は残されず、伝承の世界から運河計画は始まっていると言える。
<京都商人の出願>
◉寛文9年(1669)頃からは、西廻航路の整備による京都への物資減少への対策。荷物輸送の便を図るとともに、琵琶湖の水位減少に伴う洪水対策・新田開発にも言及する。
◉元禄8年(1695)には、京都の商人連名による計画では、願書が幕府に取り上げられ、幕府役人の現地への派遣となるが、周辺の反対により頓挫。
◉元禄年間には、敦賀に残る伝聞情報もあり。
<運河構想から新田開発へ>
運河の開通による物資輸送で直接利益を得る者以外(江戸の商人、幕府の御用職人、幕府)が出願し、琵琶湖の水位を低下させることによる湖辺の新田開発計画が取り上げられる。
◉新田開発が第一の目的とされ、運河は二の次となる。新田の支配を目的とするか。
◉享保5年(1785)には、幕府の御用職人による出願。琵琶湖の水位を下げることによる新田開発計画があり、その範囲は、瀬田川下流、大坂までの範囲に及ぶ。徳川吉宗の享保改革による新田開発奨励策と関わるか。
◉天明5年(1785)には幕府自らの計画があるも、田沼意次政権による新田開発策の一環は、田沼の失期により頓挫。
<実現性のある運河計画>
琵琶湖と日本海を運河で結ぶことは技術的に不可能に近いが、一部に水路の開響や既存の河川を利用することで実現する。輸送の便を図ることを目的とするか。
◉文化12年(1815)幕府と小浜藩によって計画され、疋田一敦賀に舟川を開き、舟を通わす。但し、工期が4ヶ月と短いところから、既存の川を利用したのではないかと考えられる。疋田の町中に舟川の一部が残る。小浜藩主が老中であったという背景がある。20年利用され、その後廃止。
◉安政4年(1857)外国船の来航による日本海航路の不安から計画される。琵琶湖側で、塩津と大浦を起点とする2ルート。疋田舟川の一部を再利用して実現。彦根藩の反対。幕府内部における利害対立がからむ。
◉文久3年(1867)幕府の許可を得た金沢藩による計画と小沢一仙による計画。金沢藩は6ルート(敦賀一塩津、敦賀一大浦、敦賀一海津で各2ルート)の測量を行う。
<琵琶湖を巡る運河計画>
◉小浜ー今津運河、瀬田川通船(宇治川、淀川を経て大阪へ)、大津ー京都運河(明治に実現する琵琶湖疏水の先駆け)などあり、
◉天野川通船による「伊勢湾へのルート」について、慶長10年(1605)、京都嵯峨の角倉が、天野川の世継(琵琶湖岸の港)から能登瀬を経て醒ケ井に川船を就航させ、美濃・尾張からの荷物を運ばせるが、彦根藩の訴えにより停止。
◉文久3年(1863)には、彦根藩が天野川を利用して中山道の柏原宿まで通船し、そこから牧田川の湊である船まで水路を開し、揖斐川を経て伊勢湾に通じる。京都町奉行所の役人が検分に訪れ、江戸からも測量方が派遣される手はずであったが、実現せず。
<運河計画が実現しなかった理由>
①当時の技術では大規模な水路や隧道を掘削することは不可能に近く、また膨大な資金を誰が負担するかが課題であった。
②運河が通ることに対する、既存の交通ルートの従事者、琵琶湖の水位低下の影響をうける水運関係者、農業従事者、漁業従事者、大名等の反対があった。
③運河ルートの入り組んだ支配による、利書関係調整の困難さ。
④運河には船を通すための水量の確保が必要な一方、洪水によって運河が被害を蒙(こうむ)るという運河維持の困難さ。
⑤一部河川を利用した運河であっても敦賀から琵琶湖へ向かうルートは引船になり、一方通行の稼ぎにしかならず、引船で荷物を運ぶのであれば、従来の陸路を利用した方が効率が良い。
以上が、講座の概要となります。
こうして史料と付き合わせて確認すると、運河計画は途中、新田開発のため琵琶湖の水位を下げる(敦賀への水抜き水路)目的に変わり、その後、江戸末期になると外国船による西廻り航路の不安により再び、敦賀からの物資輸送ルートを確保しようという歴史背景まで浮かび上がるとともに、どの時代においても重要視されてきたで敦賀津(湊)を誇りに思ったところです。
いずれにしても、伝承の世界とはいえ、敦賀と琵琶湖をつなぐ計画が平安時代からあったこと、その後も敦賀城主や京都商人、さらには幕府までが入り込んで実現させようとしたことに加え、琵琶湖から小浜、京都、大阪、さらには伊勢湾へともつなぐという、まさに「日本横断」の壮大な計画がされていたことに、大いなるロマンを感じた次第です。
講座の最後に、「歴史とは史料に基づき紐解くもの」との言葉にありましたよう、正確な史実に基づき信念をもって語っていただいた杉江先生に心より感謝申し上げます。
【杉江先生ありがとうございました。】
「日本横断運河計画」に関する講座はこれで終わりとなりますが、ぜひご覧いただきたいのが、敦賀市立博物館で開催されている特別展。
開催期間はあと少し、11月24日(日)までとなっておりますので、悠久の歴史と壮大なロマンを感じに足を運んでみてはいかがでしょうか。
【市立博物館入口に掲げられた特別展のボード】