「長崎原爆の日」と敦賀に投下された「模擬原爆」

ブログ 敦賀の歴史・文化

広島に続き、長崎に原爆が投下されて今日で79年。
 
長崎市の平和公園では、「長崎を最後の被爆地に」という願いを込め、午前10時45分から平和祈念式典が行われ、この1年間に亡くなった被爆者など合わせて3200人の名前が書き加えられた19万8785人の原爆死没者名簿が「奉安箱」に納められるとともに、原爆が投下された午前11時2分には黙とうを捧げ、犠牲者を追悼します。
 
緊迫化する国際情勢に加え、核兵器の脅威が高まるなか、被爆地・長崎から国内外に「核兵器廃絶」と「恒久平和」を発信するとの一方、長崎市は、今年の平和祈念式典でイスラエルの駐日大使を招待せず、これに対し日本を除くG7各国の駐日大使らが式典への参加見合わせを表明する事態となっています。
 
まさに理想と現実を突き付けられている思いでありますが、8月6日にも述べたよう、世界で唯一の戦争被爆国として、核保有国と非保有国、あるいは世界平和の架け橋、橋渡し役ができるのは日本であり、まっすぐにその役割を果たしていかねばと、思いを強める次第です。
 
また、決して忘れてならないのは、長崎への原爆投下前日の昭和20(1945)年8日8日午前9時頃、アメリカ軍が原爆投下の訓練のため、敦賀市の東洋紡(当時は東洋紡績)に爆弾を投下し、動員されていた学生ら33人が犠牲となってからも同じく79年を迎えたこと。
 
なお、B-29爆撃機が敦賀に投下したのは、長崎に投下した原子爆弾と同型の模擬爆弾(通称パンプキン)。
 
同年7月12日、7月30日の敦賀空襲に続いて被害のあったこの空襲に関し、「敦賀市史」通史編(下巻)第四節 三.敦賀大空襲では、当時の状況を以下のように記録しています。
 
<以下、「敦賀市史」を引用>
 
(7月30日の空襲に)ついで、八月八日午前九時ごろ、空襲警報が発令され、市民は防空壕に退避した。まもなくB29が単機敦賀上空に現われ、一旋回して低空飛行の態勢で東洋紡績工場に爆弾を投下し、そのまま南方に飛び去った。この爆弾は、東洋紡の捲糸室に命中し、火災となった。また隣接していた紡糸室と事務所の一部とが爆風のために破壊された。この爆撃で、工員一五名、動員学徒一六名、引率教員二名の命が失われた。
 
こうしたなかで敦賀は、八月十五日の敗戦の日を迎えるのである。なおこの項の記述にあたっては、多く『敦賀市戦災復興史』の記述を利用させていただいた。
 
(引用終わり)
 

【模擬原爆の被害にあった東洋紡工場の様子(NHK 福井放送局WEBより引用)】
 
昨日は、犠牲者の位牌がある市内の永建寺で法要が行われ、参列されたご遺族や工場の関係者など合わせて14人が、若くして亡くなった犠牲者を悼まれましたが、空襲のあった午前9時には、私も同じ思いで静かに手を合わせたところ。
 
なお、私は以前に、東洋紡敦賀工場にお伺いし、保存されてる当時の資料を拝見させていただきましたが、79年前にあった史実を目の当たりにするとともに、突然若き命を奪われた方々の無念、そして長崎の予行演習とばかりに模擬爆弾を投下したその行為に怒りを覚えました。
 
無念と怒り、このようなことを二度と繰り返してはならないとの思いが、恒久平和を希求することにつながるのだと思いますが、本日行われる長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に合わせ、哀悼とそうした願いも込めて、今日も静かに手を合わせたいと思います。