2024年7月29日
「松原客館の謎」を紐解く 〜敦賀市民歴史講座(第2講)を開催〜
「妹の分まで兄が頑張らないと」
序盤から日本選手の活躍が続くパリ五輪ですが、昨日、印象に残ったのはやはり阿部きょうだい。
柔道男子66キロ級で見事、阿部一二三選手が金メダルを獲得。
妹の無念も晴らすべく、合わせ技一本で勝ち切った一二三選手には「あっぱれ!」の言葉しかありません。
そして、女子52キロ級2回戦で敗れた妹の詩(うた)選手。
なんと、国際大会では5年ぶりの敗戦、しかも一本負けに限れば2016年グランドスラム東京大会で角田夏実選手(前日に48キロ級で金メダル)に屈して以来となる「負け」がこのオリンピックになるとは、人生とは時に非情でもあり。
敗れた後、泣き叫ぶ姿に、詩選手の悔しさが痛いほど伝わってきましたが、この涙の分だけ強くなれると信じ、次のロサンゼルスでは是非とも雪辱を果たされることを期待し、応援する次第です。
さて、こうして阿部きょうだいのことは、オリンピック史に刻まれる歴史になるのだと思いますが、こちらは敦賀の歴史。
先日ご紹介した、今期第2講となる気比史学会主催の「敦賀市民歴史講座」を7月27日(土)に開催しました。
大変暑い日にも関わらず、講師には、昨年11月のNHK「ブラタモリ」(新幹線開業!敦賀)にゲスト出演された南出眞助氏(追手門学院大学名誉教授)とあってか、はたまたこの日「松原客館の謎」が解けるとの期待もあってか、90名を超える聴講者にお集まりいただき開催することができました。
【会場がほぼ満員となった敦賀市民歴史講座(第2講)】
テーマは「歴史地理学からみた古代・中世の敦賀」。
歴史地理学の第一人者である南出先生は、かつて(大学の卒論で書かれた1978年のこと)、古代敦賀に東西2つの入江を想定し、ラグーン(潟湖)内と外浜とに2つの船着場を持つ「敦賀津(港)」を考えられました。
また、近世「京街道」の延長に当たる三島地区に、北陸道「松原駅」を比定したものの、「松原客館」の位置については、松原駅より西方の微高地という以上に特定し得なかった訳ですが、その後『敦賀市史』『福井県史』の史料編が次々と刊行、近世奉行所跡の発掘調査成果も得られ、国土地理院GISマップを用いて、より精度の高い地形復原を試みた結果、旧稿を一部修正する必要が生じたとのこと。
講座では、平安時代中期に律令の施行細則をまとめた法典「延喜式」(えんぎしき:927年成立。50巻にも及ぶ。)の規定から紐解き、当時は北陸道と都を結ぶ旅客と貨物を運ぶルートが異なっていたことや、「凡そ越前国松原駅館。氣比神宮司に検校令むる」との記載から、松原客館は当時「※松原駅館」と呼ばれていて、氣比神宮司が管理していたことを説明。
※その後、駅制が廃止されたことから客館と呼ぶようになったのではとの説あり。
地図や空中写真(1948年米軍撮影空中写真)から過去の地形を推定のうえ、国土地理院vector地形データを用いて作成した「色別標高図」から、氣比神宮の北側(東のラグーン)、来迎寺から結城町に掛けて(西のラグーン)、井ノ口川河口周辺(第三のラグー)と古代の敦賀には3つの入江があったことを特定。
さらには、県などが実施したボーリングデータや笙の川断面図などの、いわゆる土木技術の面から、丁寧に調査を進められたことを知りました。
また、もう一方の歴史史実の観点からは、延喜19(919)年の渤海使来着時における松原客館滞在の様子が書かれた『扶桑略記』では、今でいう丹生(美浜町)に漂着した渤海使が、松原客館に到着した際、「門戸は閉封され、行事官人等人無く、況や敷設の薪炭更に儲備なく」とあり、つまりは「門戸に鍵が掛かっていて入れない、人もいない」状況であったことから、管理していた氣比神宮より、やや遠い位置にあったのではないか。
敦賀湾側から来ると思っていたところ、丹生から馬背峠を越えて陸路で来たことから、気付かなかったのではと想定されるとありました。
このほか、松原客館は、迎接館であり、今で言う入国審査所や検疫所を兼ねる場所であったことから、厳重な警戒態勢を敷く意味で、国内の一般交通・流通から隔離できる距離と空間が必要であり、その点、ラグーンの突起形状、言わばボトルネックになっているのは、西のラグーンであること。
【西のラグーンに半島状に突き出た来迎寺(講座資料抜粋)】
氣比神宮と来迎寺間は最短で結ぶ道があったであろうことなどから、歴史地理学における「空間的合理性」の観点や「松原」という呼称からみて、松原客館は「西のラグーン西方の微高地上」に求めるのが蓋然性が高い、つまりは来迎寺あたりにあったのではないかとの考えが示されました。
松原客館に関しては、7つの候補地があると言われる中、先生からは、あくまでも歴史地理学における考えであり、他の論考や意見を否定するものではありませんとの言葉がありましたが、この他者や地元への配慮、奥ゆかしさこそが、先生の歴史を学ぶ姿勢なのでしょう。
その姿に敬意を表した次第です。
こうして、様々な観点から先生の考えをお伺いし、大いに納得した次第ですが、30年以上前から「松原客館の謎」に迫ってきた気比史学会。
今回のお考えも重要な参考情報とし、会のメンバー自身、あるいは市民の皆さんにも参加いただきながら、今後もこの謎を解き明かしていければと考えるところです。
結びになりますが、長年に亘り、敦賀の地に思いを馳せ、詳細且つ膨大なデータをもってご講義いただきました南出先生、大変暑い中お集まりいただいた聴講者の皆様に心より感謝申し上げます。
【やさしい関西弁で、時折ユーモアを交えお話しいただいた南出先生。本当にありがとうございました。】
次回、第3講は9月7日(土)、射水市新湊博物館学芸係長の松山充宏氏をお招きし、「足利一門桃井(もものい)氏について 一越前・若狭に残された足跡ー」をテーマに開催しますので、奮ってご参加いただけますようお願いいたします。